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「良かれと思ってやった」
人はこの大義名分さえあれば、どれだけ失敗をしても免罪される傾向がある。
けれども時として、完全なる善意は裏目に出る。
与える側は「どうして分かってくれないの?」と苛立ち、受け手は「いいからもう!」と迷惑に感じるようになる。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のラース・フォン・トリアー監督は、そんな善意、正義を振りかざす国・アメリカを痛烈に風刺した『マンダレイ』を作り上げた。
これは彼が現在取り組んでいる“アメリカ三部作”の第二弾。
物語はドッグヴィルの街を出た後から始まる。
グレースは父の率いるギャング団と共に、南部の農園マンダレイにやって来る。
この街は奴隷制度がいまなお存続し、一人の「ママ」を頂点に黒人たちが搾取される生活を送っていた。
正義感に燃えるグレースが、この惨状を放置するはずもない。
彼女は父からギャング団の精鋭数人を引き取り、圧倒的な武力をバックに黒人たちを解放。マンダレイの地に民主主義を根付かせようとするのだが、彼女の打つ手はことごとく裏目に。元奴隷たちはどんどん不幸になっていく――。
前作『ドッグヴィル』では広いセットを村と見立て、建物は白線を引くだけというミニマルな演出が話題を集めた。『マンダレイ』でも同様の手法が踏襲されたのだが、不思議なことに、瞬時に物語に入り込んでいる自分がいた。
ここにラース・フォン・トリアーの「天才」たるゆえんがあると思う。
例の演出は単なる実験ではなかったのだ。
「モノ」を排除することでドラマの密度が上がり、さらに三部作が展開される世界のバーチャル性を高めることに成功している。
もちろん独特な空間は一見の価値ありだ。
しかし「マンダレイの先にあるもの」を読み取ることで、デンマークの鬼才は稀代の映像作家であり、ストーリーテラーでもあり、さらには社会派監督でもあることが分かる。
監督自身も語っているように、今作のグレースはジョージ・W・ブッシュ、そして現在のアメリカそのもの。
物語のクライマックスでグレースが見せた行動。あれこそがアメリカの本当の姿だ。
民主主義を押し付け、泥沼状態に陥ってしまったマンダレイの惨状は、イラク情勢にピッタリと当てはまる。
まじりっ気なしの善意とは、ひとつの国を滅ぼすまでの害悪となりうる。
そんなこと、アメリカにとっては絶対に知りたくもないことだろう。
ラース・フォン・トリアーはアメリカに行ったことがない。であるからこそ、彼は残酷な真実を突きつけることができた。
これまで「アメリカ批判」といえばマイケル・ムーアかチョムスキーか。そんなところだったけれど、個人的にはラース・フォン・トリアーのほうが“えげつない”と思った『マンダレイ』鑑賞記でした。
ちなみにアメリカ三部作、最終章は『ワシントン』。
来年には公開される予定だ。
いよいよ本丸に迫ったラース・フォン・トリアーの鉾先。今度は果たして、アメリカの何をえぐり取るのだろう。